魔導書工房の見習い日誌
2話 図書委員の友達
スポーツバッグを踏まないように簀の子の上を抜けて、そのあとは走る人たちにぶつからないよう廊下を進んで階段を上る。教室の並ぶ二階では吹奏楽部の練習する音が響き渡っていて、その音の洪水から逃れるように図書室の戸を開いた。
あたたかな空気と、すべての音が遠ざかるような静けさ。ストーブと古い本たちの香りが、千尋を少しだけ安らがせた。
この図書室の鍵を開け、ストーブで部屋をあたためていた人は想像がつく。同じ学年で図書委員をしている女子生徒なのだが、千尋はその人以外が図書委員の仕事をしているのを見たことがない。小さく息を吐いた千尋を出迎える声がする。
「メリークリスマス、千尋君」
カウンターから嬉しそうに顔を覗かせたのが、千尋の唯一の友達である万里 だった。彼女は図書委員で、部活動にも所属していないので冬休み中の図書室開放では貸し出し手続きをする役割を預かっている。
特に気が合うわけではないが、彼女は誰にでも分け隔てない。病気がちで小学校は保健室登校だったらしく、当時同じ学校に通っていながら面識はなかった。知り合ったのは中学に入ってからだ。小学生の頃はほとんど面識のなかった人々の輪にすんなりと迎え入れられるくらい人好きのする彼女の性格に加え、千尋が周囲から避けられ始めた時期を知らなかったことが、友好的な関係を築けた要因かもしれない。
「浮かれた挨拶……」
呆れを見せながら軽く溜息を吐いたが、万里は気にしていない様子で「今日はもう来ないのかと思った」と続けた。
「いつもの時間に来ないから」
「ああ、今日はちょっと……歩いて来たから」
「うそ! そんなの凍っちゃうよ……!」
慌てて駆け寄った万里が、冷えたコートごと手首を掴んで千尋をストーブの側に連れて行く。灯油式のストーブに近付けば、火の燃える匂いと暖気がむっと鼻先に押し寄せた。
「凍らないよ。もうそんなに寒くない」
呆れ笑いが滲む。だが、万里は心配そうに千尋の鼻先をつついた。何か触れた、というくらいの感覚しかなくて、千尋は首を傾げる。
「鼻が冷たいよ。手も……」
「いや、平気だから。ありがとう」
「お礼まで言ってる! 千尋君は私にお礼とか言わないから……!」
悲鳴じみた声に、千尋は眉を寄せた。万里は千尋をなんだと思っているのだろう。
コートを椅子の背に掛けて乾かしながら、万里は自分の座る椅子も千尋の側に持って来た。図書当番の仕事はまるきり放棄するつもりらしい。
「おい、カウンター……」
「いいよ。どうせ千尋君しか来ないもん」
良いものあげるから見逃して、と万里は使い捨てのカイロを千尋に握らせた。まだ十分にあたたかく、手がじわじわと熱を取り戻していく。
「……自分で持ってろよ」
「今は千尋君の方が寒いでしょ。私、癖で持ち歩いてただけだし」
「別に平気だって……」
「それ、寒すぎて感覚がなくなってるだけじゃないかな。だんだん手が凍えてたこと思い出すよ」
悪戯っぽさを滲ませた笑みで覗き込み、万里は自分の膝にブランケットを掛けた。それから、見たことのない本を読み始める。装丁が重厚で、箔押しは銀に虹色の輝きが混じっているから光の当たり方で多色に煌めいた。
「……その本」
カイロを握りながら視線を向ける。だんだんと、手がぬくもりを取り戻すごとに自分の手が痺れるように感じる。万里の言うとおり、温められてようやく自分が芯から凍えていたことに気付いた。
万里はそっと本を閉じ、千尋に差し出す。
「もう捨てちゃう本なんだって。でも綺麗だから、司書さんに言って譲ってもらったの。中身はちょっと子供向けなのかなと思ったんだよね。挿絵がいっぱい入ってて」
本をこわごわ受け取って、ページをめくる。作者も題名も書いていなかったので、何かの記念誌や付録だったのかもしれない。万里が言ったように挿絵が沢山入っていたものの、それらはごく限られた彩色のみをなされた精緻なペン画だったのでむしろ芸術めいた雰囲気を感じる。
文字は近頃の印刷と違って、字に独特の揺らぎがあった。古い文庫本によく見られる、滲んだり僅かに欠けたりしているような味わいがある印刷。それは、現代の印刷とは違う手法で作られた本だということだろう。
「中身はね、魔法のある世界の話。私も好きだけど、千尋君もファンタジーって好きでしょ」
「……まあ、軽薄な感じのは嫌いだけど」
「好きなのは本格的なやつだよね、私もそう。だったらその本はきっと好きだよ。たぶん神話か何かを元にしてるんだと思うんだ。読めばわかるんだけど、世界樹っていう木が出てくるから」
言われながらページを繰れば、日本語で綴られてはいるが横書きだったということに気付く。装飾の多いページに、凝った装丁、銀の煌めきを宿した夜色のインクで作られた本はまるで――……。
「魔導書、みたいだよね」
万里の言葉にはっと顔を上げれば、彼女は輝きを宿した瞳を細めて微笑んでいた。そういう空想は馬鹿馬鹿しいと思う。魔法なんて架空のもので、いくら似せても魔導書なんてものはあり得ないからごっこ遊びに過ぎない。それでも、千尋は頷いた。存在しないものに憧れること、それを口に出すことを笑われずに分かち合える彼女を好ましく思っていた。
あたたかな空気と、すべての音が遠ざかるような静けさ。ストーブと古い本たちの香りが、千尋を少しだけ安らがせた。
この図書室の鍵を開け、ストーブで部屋をあたためていた人は想像がつく。同じ学年で図書委員をしている女子生徒なのだが、千尋はその人以外が図書委員の仕事をしているのを見たことがない。小さく息を吐いた千尋を出迎える声がする。
「メリークリスマス、千尋君」
カウンターから嬉しそうに顔を覗かせたのが、千尋の唯一の友達である
特に気が合うわけではないが、彼女は誰にでも分け隔てない。病気がちで小学校は保健室登校だったらしく、当時同じ学校に通っていながら面識はなかった。知り合ったのは中学に入ってからだ。小学生の頃はほとんど面識のなかった人々の輪にすんなりと迎え入れられるくらい人好きのする彼女の性格に加え、千尋が周囲から避けられ始めた時期を知らなかったことが、友好的な関係を築けた要因かもしれない。
「浮かれた挨拶……」
呆れを見せながら軽く溜息を吐いたが、万里は気にしていない様子で「今日はもう来ないのかと思った」と続けた。
「いつもの時間に来ないから」
「ああ、今日はちょっと……歩いて来たから」
「うそ! そんなの凍っちゃうよ……!」
慌てて駆け寄った万里が、冷えたコートごと手首を掴んで千尋をストーブの側に連れて行く。灯油式のストーブに近付けば、火の燃える匂いと暖気がむっと鼻先に押し寄せた。
「凍らないよ。もうそんなに寒くない」
呆れ笑いが滲む。だが、万里は心配そうに千尋の鼻先をつついた。何か触れた、というくらいの感覚しかなくて、千尋は首を傾げる。
「鼻が冷たいよ。手も……」
「いや、平気だから。ありがとう」
「お礼まで言ってる! 千尋君は私にお礼とか言わないから……!」
悲鳴じみた声に、千尋は眉を寄せた。万里は千尋をなんだと思っているのだろう。
コートを椅子の背に掛けて乾かしながら、万里は自分の座る椅子も千尋の側に持って来た。図書当番の仕事はまるきり放棄するつもりらしい。
「おい、カウンター……」
「いいよ。どうせ千尋君しか来ないもん」
良いものあげるから見逃して、と万里は使い捨てのカイロを千尋に握らせた。まだ十分にあたたかく、手がじわじわと熱を取り戻していく。
「……自分で持ってろよ」
「今は千尋君の方が寒いでしょ。私、癖で持ち歩いてただけだし」
「別に平気だって……」
「それ、寒すぎて感覚がなくなってるだけじゃないかな。だんだん手が凍えてたこと思い出すよ」
悪戯っぽさを滲ませた笑みで覗き込み、万里は自分の膝にブランケットを掛けた。それから、見たことのない本を読み始める。装丁が重厚で、箔押しは銀に虹色の輝きが混じっているから光の当たり方で多色に煌めいた。
「……その本」
カイロを握りながら視線を向ける。だんだんと、手がぬくもりを取り戻すごとに自分の手が痺れるように感じる。万里の言うとおり、温められてようやく自分が芯から凍えていたことに気付いた。
万里はそっと本を閉じ、千尋に差し出す。
「もう捨てちゃう本なんだって。でも綺麗だから、司書さんに言って譲ってもらったの。中身はちょっと子供向けなのかなと思ったんだよね。挿絵がいっぱい入ってて」
本をこわごわ受け取って、ページをめくる。作者も題名も書いていなかったので、何かの記念誌や付録だったのかもしれない。万里が言ったように挿絵が沢山入っていたものの、それらはごく限られた彩色のみをなされた精緻なペン画だったのでむしろ芸術めいた雰囲気を感じる。
文字は近頃の印刷と違って、字に独特の揺らぎがあった。古い文庫本によく見られる、滲んだり僅かに欠けたりしているような味わいがある印刷。それは、現代の印刷とは違う手法で作られた本だということだろう。
「中身はね、魔法のある世界の話。私も好きだけど、千尋君もファンタジーって好きでしょ」
「……まあ、軽薄な感じのは嫌いだけど」
「好きなのは本格的なやつだよね、私もそう。だったらその本はきっと好きだよ。たぶん神話か何かを元にしてるんだと思うんだ。読めばわかるんだけど、世界樹っていう木が出てくるから」
言われながらページを繰れば、日本語で綴られてはいるが横書きだったということに気付く。装飾の多いページに、凝った装丁、銀の煌めきを宿した夜色のインクで作られた本はまるで――……。
「魔導書、みたいだよね」
万里の言葉にはっと顔を上げれば、彼女は輝きを宿した瞳を細めて微笑んでいた。そういう空想は馬鹿馬鹿しいと思う。魔法なんて架空のもので、いくら似せても魔導書なんてものはあり得ないからごっこ遊びに過ぎない。それでも、千尋は頷いた。存在しないものに憧れること、それを口に出すことを笑われずに分かち合える彼女を好ましく思っていた。